昭和44年 9月21日 特別奉修委員会



 おかげとか直接関係のあることではないかもしれませんけれども、この信心の1つ雰囲気というか、情緒というか、そういうようなものがある。私はあの、合楽、とくに私の信心には非常に濃厚だと思うんですよね。
 うーん、例えば、あの、御祈念なんか、御祈念さして頂いて、昔はもう大祓いでも何巻でも、また場合には何十巻でも、続けてあげるといったような、修行さしてもらってましたけれども。
 もう、こうして、おかげ頂くようになりまして、このかたもう大祓いは一巻と心に決めさせて頂いて、その一巻を充実したものでなからなければならんと思いますから、ご本部参拝さして頂いて、奥城なんかではね、皆さんが何巻も何巻もあげられますでしょう。
 けれども、私はもう一巻と決めております。その代わりその一巻「     」、そのいわゆる一生懸命のものをあげさしていこうというですけれども。
 その時に、私は思うですね、とくに祖先賛詞なんかあげます時に、祖先賛詞がもちっと、もちっと長かったらよかろうごとが、もうどこまでもどこまでも、あの1つのリズムに乗ってね、あの、祖先賛詞を奉唱さして頂きます時に、本当に、あの、ああいう時に御霊様が、それこそ喜んで下さるのではなかろうか。
 なんですかね、あの、仏教の中にあります、あのー、何とかっていう、もうそれこそ神様も仏様も、もう「手となり足となり?」、というような雰囲気で、お喜びになっていったようなお経がございますよね。
 そういうような、あのー、皆さんはどうでしょうか。あのー、心ゆくまで御祈念をなさる時に、そういうような雰囲気を、楽しまれ、まぁ、楽しまれる。楽しんでいるわけですよね。
 けれども、私は信心には、そういうそのこれはだから、おかげとか信心だというものじゃなくて、信心さしていただいとる者の、1つの冥加といったようなものを、あの御祈念中に感ずることがありますね。
 ね、それを神様が聞いてくださる聞いてくださらぬ、別としてですたい。そういうものも、しかし私は大事だと思うんですよね。私はだいたい非常に、そこんところがちっと、その、まぁ、情緒云々というか、そういうような雰囲気を私好む性質ですが。
 どうも、皆さんにそれがピンとこないようであって、昨日も総会から帰らせて頂きましたのが、ちょうど予定よりも1時間ばかし遅れておりましたから、あの遅くなりまして、それから、あの、お風呂、お風呂頂いて、それからあの、高橋さんがおふろ、お風呂入っておりましたら、あの、帰らして頂きますという、お届けにみえましたね。
 あんた今日菊栄会じゃっただろうが、でもみんな帰ってしもうて、「    」、まさきさん、文男さん、そこにおります4、5人。あの、昨日、菊栄会引き続き、そうであろうから、そりゃ、今日、菊栄会の方達が今日の感動を、あの、共励し合うだろう、話し合うだろうと思っておりましたし、家内やら子供達も、ならもう、連れてきとう人もありましたからね。
 文男さんあたりが、家内も来とりましたし、それで、家内も堂々風呂にでも入ってもらってゆっくり、今日は菊栄会の、「本部で?」お父さんがどげな話をしよるじゃろうか、そういう雰囲気も、あの、見たり聞いたりしてもらいながら、共励してもらうつもりで、ちゃんと、食事の準備も菊栄会の分だけ余分にしてあったんですよ。
 そしたら、もうみんなが逃げ腰ですよね。ね、泊まれと言われたら、残れと言われたら大変といったような態度をとりますからね、途端にさみしゅうなってですね、私。それ、そして風呂入ったら、そうやって高橋さんが、そうねもう帰るとね、とにかくね、「ラストシーン?」を大事せにゃ、いけんとにね。と私が一口言わしたもんですから。
 高橋さんもなんかそれが、引っかかったらしいんですよ。私が9時の御祈念出てくるちょっと前までおられました。まあ、ひとりづつ残っておりましたわけでしたけれども。
 ああいうなんか、例えば本当に、まっ例えていうならば、菊栄会っていうね美登里会の方達が、あの、ここでお参りをさして頂いて、3人か4人、ここでいっしょになっただけでも、楽しまれるのにね。
 まして、二十何人のものが美登里会の日に集まって、えー、信心の共励でもなさるということは、本当にあの、信心の共励、おかげを受けよるためやけれども、その雰囲気を楽しまれるのだと思うのですよね。
 菊栄会なんでも、本当にみんなそういう信心、同心の人達ばかりが、月に1回の会合ですから、結局、菊栄会の最近の会合の、会合の中に、まためいめいの信心の中に、そういうようなものがもう欠けていっておると思いましたね。
 どうも、合楽の場合は、椛目合楽を通して、どうも信心が高尚になってくると、この「かえっておすな?」といったような、「里子息子?」的なですね、だんだん育っていくと甘うなる。
 今日の朝の御理解に、この神様を甘く見るということが、結論としましたよね。えー、傘一本で開ける道という御理解の結論。ここ一言だけは、分かって頂きたいというて、申しました。その神様を甘く見てはならないということはね、私は信心が、お互いの信心が甘くなることだと思うんですよね。
 ね、神様をなめてかかろうけれどもなかろうけどですね、それがどこに原因するかというと、そういう信心の1つの情緒といったものが、そういう信心の楽しみといったようなものがですね、あの欠けてくるんじゃないかと。
 もう親先生の言われることだけは、もう知っとると。もう先生が話なされば、ああ言おうと思って言いよりなさるといったようなことがですね、もう分かるわけでありますね、先生どんになりますと。
 けれども、そこの中から、また新しいものを頂いていこうといったようなね、意欲に非常に欠けて、もう私と全然、最近はなんっていうんですかね、息が合わないんです。ピタッと。
 こりゃまぁ、思うてみれば、思うて見るほど、私の信心のこりゃ教導、不行き届けだと思うんですけれども、えー、お互い1つめいめいの家庭においてもそうですけれども、お広前ではとりわけ、なにかしら1つのそういう、んー、信心の本当に御理解を頂く楽しみというか、信者同士、信心話をさしてもらう、それは大したことじゃないかもしれんけれどもね、そこにこう、楽しめれる雰囲気を持った信心を頂きたいと思うんですね。
 まぁ、忠臣蔵なら忠臣蔵んでも、余文とか外伝とかいったものがありますように、まぁ今日の御理解は、そういう意味でですね、まぁこれは余文というか外伝的なものですけれども、信心にはそういうものが、あー、濃厚である。
 それを、私の信心がですから、こりゃ、他の教会に比べるとそれでもまだまだ、ずいぶん濃厚に見えるらしいですね、他所から来た方達は。合楽は非常に家庭的だといわれるのは、そういう由縁だと思うんですね。
 ですからその、家庭的であるという、ですから、本当に引くに引かれないっていったようなもの、だんだん強くなってこなければならんのに、けれども、それとてもです、信心が根本ですからね。
 その根本の信心が、あのー、だんだん薄く、いわゆる御理解を頂く喜びなどっていうものが、だんだん薄くなってきよることは、もうすでにそういう老化現象ですね、いうならば、うん。
 ですから、こりゃあ1つ、大変なことだとこう思うんです、そして、ならもう傘一本で開ける道、開くことができる道と、こう仰る。開くことができるということは、もう絶対のものとしてです、開いた後はね、これではあぶないなと思うです。
 ね、神様を甘く見るということは、自分自身がだんだん信心が育つにしたがって甘うなる。ね、というようなところをですね、そういう意味で皆さんの信心は、あー、今んところですね、1つ雰囲気を持っておられる、それを私も非常にありがたいものに思います。 もうとにかく、まぁ月次祭なら月次祭が終わったら、もう早よ帰らな損するごとしてから、昔はああじゃなかった、とにかく、用はなかったっちゃしらん、何とかかんとか言いながら、残って話し合うというのが楽しいといったようなものがあったんですけれど、これは皆さんのことじゃないですよ。
 ですけども、皆さんの場合はそんなわけにはまいりませんね、月次祭のときなんか。けれども、やはり、幹部とか、とりわけ来週、大祭を「   」ひかえたですね、菊栄会の人達が、何か大祭のことでも話し合うとらんで、私はよかったじゃろうかと私は思うくらいなんです。
 ね、でなかったら、本当にあちらの会